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昨日の人工地震はフランス嫌いの仕業 - カルト指定

2024/04/25 (Thu) 11:26:02

『2024年4月24日(水)午後8時過ぎから、2023年11月30日(木)にNHK-BSPで放送されたアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」の録画を鑑賞していたら、茨城県北部で大きな地震が起こった』



>2024年4月24日(水)20:40ごろ
茨城県北部で最大震度4の地震

>震源地/深さ/規模 茨城県北部/60km/M5.0
北緯/東経 36.5度/140.6度
この地震による津波の心配はありません

>震度4
・茨城県
ひたちなか市城里町土浦市水戸市常陸大宮市日立市東海村
・栃木県
市貝町
・千葉県
野田市



〓2024年4月24日(水)午後8時 過ぎから、2023年11月30日(木)にNHK-BSPで放送されたアラン・ドロン主演のフランス映画「太陽がいっぱい」の録画を鑑賞していたら、茨城県北部で大きな地震が起こった。

〓あれ程の大きな地震にも拘わらず、予震も余震も無いところ見ると人工地震だった可能性が極めて高い。

〓余程フランスが嫌いな勢力の仕業ではないか。

〓フランスでカルト指定されたことを逆恨みでもしているのか。

〓カルト体質は全く変わってないようだな。

出鱈目プレート・テクトニクスを垂れ流す詐欺師 - 竹内均、島村英紀、笠原順三

2024/04/19 (Fri) 10:04:46

〓プレート・テクトニクスが出鱈目であることは既にハロルド・ジェフリーズ(Harold Jeffreys)が指摘している通りであるが、ポンコツ東大に巣食った竹内均や島村英紀、笠原順三など曲学阿世の輩は、出鱈目プレート・テクトニクスを垂れ流して、それこそ天文学的な研究予算を国から騙し取って来たのである。

〓プレート・テクトニクスがスコラ哲学者の唱えた地球平板説と変わらぬ迷信、俗説なのだから、上掲記事の中で尤もらしくポンコツ東大名誉教授の笠原順三が語る首都直下地震の予測も、そこら辺の占い師の予言と変わらぬレベル(信頼度)なのだ。

〓ポンコツ東大入試の2次試験(前期日程)では、毎年 地学の問題として出鱈目プレート・テクトニクスが出題されている。

〓出鱈目プレート・テクトニクスを垂れ流すポンコツ東大理学部地球物理学科は、天文学的な国の文科予算を騙し取るだけの木偶の坊である。

悪逆非道な中国共産党との共存を目指す『21世紀の宥和政策』 - ネヴィル・チェンバレン、ダラディエ

2024/04/18 (Thu) 11:56:22

〓徳川の残党を黒幕とする(嘗てコミンテルンの日本支部だった)日本共産党が、マルクス共産主義イデオロギーに拠って立つ「21世紀の大東亜共栄圏」、「狂人ヒットラーのナチスに劣らず悪逆非道な中国共産党との共存共栄を目指す21世紀のミュンヘン協定」、すなわち“東アジア友好協力条約”の締結を構想。

〓徳川の残党を黒幕とする(嘗てコミンテルンの日本支部だった)日本共産党が、悪逆非道の中国共産党や中国国民党、朝鮮労働党の機嫌を取りつつ、共産主義マルクス経済学に則った東アジア経済圏を構築するという荒唐無稽な妄想を垂れ流し。

〓これは、独善的なノーメンクラツーラ(社会主義特権階級)による反革ブルジョア分子の粛清、ジェノサイド地獄に日本を含む東アジアを突き落とそうという極めて危険な反米・極左的妄想である。

〓天賦人権思想や法の支配を謳う世界人権宣言、国際人権B規約、日本国憲法99条を踏み躙る甚だしき愚考だ。

〓狂人ヒットラーのナチ党や変人ムッソリーニのファシスト党との平和的共存を目指した1938年のネヴィル・チェンバレンとダラディエが推進したミュンヘン(友好協力)協定と全く同じように、悪逆非道の中国共産党や中国国民党、朝鮮労働党の増長と暴走を招く結果に終わろう。

悪逆非道な中国共産党との共存を目指す『21世紀のミュンヘン』 - ネヴィル・チェンバレン、ダラディエ

2024/04/18 (Thu) 11:47:46

『徳川の残党を黒幕とする(嘗てコミンテルンの日本支部だった)日本共産党が、マルクス共産主義イデオロギーに拠って立つ「新たな大東亜共栄圏」、「狂人ヒットラーのナチスに劣らず悪逆非道な中国共産党との共存共栄を目指す21世紀のミュンヘン協定」、すなわち東アジア友好協力条約の締結を構想』



>『日本共産党議長の志位和夫がマルクス共産主義に拠って立つ東アジア友好協力条約の締結を目指す考え示す』
2024年4月17日(水) 23時12分 NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240417/k10014425181000.html

徳川の残党を黒幕とする日本共産党の議長 志位和夫は、東アジアの平和と安定に向けて対話の枠組みを構築し、将来的に各国が参加する「東アジア友好協力条約」の締結を目指すべきだという考えを示しました。

日本共産党議長の志位和夫は2024年4月17日(水)夜、国会内で外交をテーマに講演し、東京にある各国の大使館関係者らおよそ150人が出席しました。

この中で、志位和夫は去年2023年の年末にベトナムなど東南アジア3か国を訪問したことに触れ「現地での意見交換を通じて、東南アジアには対話の習慣が根付いているが、東アジアには不足していることを痛感した。東アジアでは軍事を含む大国間の対抗と分断が憂慮すべき事態となっている」と指摘しました。

そのうえで、東アジアの平和と安定に向けて「諸問題を対話により解決する取り組みを積み重ね、包摂的な枠組みをつくる」と述べ、将来的に各国が参加する「友好協力条約」の締結を目指すべきだという考えを示しました。

一方、台湾情勢をめぐり、志位和夫は、中国共産党による台湾への武力行使に反対すると表明した上で、日本の対応について「台湾有事は日本有事などと主張し、大軍拡に利用する動きがあるが戦争のリスクを高めるもので厳しく退けることが重要だ」と述べました。

ソロモン諸島の与党政権は第2のクメール・ルージュになるか - 中国共産党

2024/04/16 (Tue) 10:07:04

南モンゴル(内モンゴル自治区)出身の楊海英によると、漢人たちはモンゴル人に対し、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れる、鉄釘を頭に打ち込む、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引く、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を子宮から引っ張り出すなどの凄惨な性的暴行・拷問・殺戮を加えた[2]。内モンゴルのジャーナリストや研究者たちによると、当時内モンゴルに居住していた150万人弱のモンゴル人のうち、犠牲者は30万人に達し、その後、内モンゴルではモンゴル人の人口250万人に対して、漢人の入植者は3,000万人に激増した[2]。楊海英は、事件をきっかけに「19世紀以降に満洲、モンゴル、新疆へと、彼ら漢人(支那人)が領土拡張してきた方法」により、内モンゴルは植民地開拓され、「内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口がたったの250万人にとどまり、あとから入植してきた支那人はいつの間にか3,000万人にも膨れあがり、その地位が完全に逆転してしまいました。支那人による植民地開拓のプロセスは何処でも基本的に同じ人海戦術です」と述べている[2]。

アルタンデレヘイ(支那語: 阿拉騰徳力海)は、「中国共産党はまず、ウランフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。『文字を読める人』は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。50種類以上の拷問が考案され、実行された。たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である」と批判している[7]。

1979年になり内モンゴル自治区は再設置され、ウランフも名誉回復されたが、内モンゴル独立運動は徹底的に弾圧され、中国共産党はジェノサイドをおこなった漢人入植者を処罰しなかったことから、1981年にモンゴル人大学生による大規模な抗議活動がおこなわれたが、当局の厳しい弾圧に遭い、抗議活動を支援したモンゴル人幹部や『内モンゴル人民革命党粛清事件』を生き延びた人々は全員粛清され、モンゴル人大学生も辺鄙な地域へ追放されて公民権を剥奪された[7]。

ソロモン諸島の与党政権は第2のクメール・ルージュになるか - 中国共産党

2024/04/16 (Tue) 10:02:38

1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[3]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは『内人党分子』とされたモンゴル人が弾圧された。

こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。

1966年から1976年にかけて中国共産党政権は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで、当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人のうち、70万から80万人を投獄し、34万6,000人が逮捕され、2万7,900人が殺害され、12万人が暴行を受けて障害者にされ、5万人から十数万人を殺害した[1][4][5][6]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[5]。

ソロモン諸島の与党政権は第2のクメール・ルージュになるか - 中国共産党

2024/04/16 (Tue) 09:58:38

1993年、『ニューズ・ウィーク』は、「説明は悲惨だった。校長は学生によって遊び場で殺され、調理され、食べられた。政府が運営するカフェテリアは、肉のフックからぶら下がっている人体を展示し、従業員に配布した。先週 支那から密輸された文書は説明したグロテスクなディテールでの文化革命の残虐行為。」[30]

1993年、『ニューヨーク・タイムズ』は、「広西チワン族自治区から報告された事件は、明らかに前世紀以上に世界で最も広範な共食いのエピソードであった」と述べた。同紙はさらに、「参加した参加者が飢餓や精神病質の病気に動機付けられていなかったという点でも他の人とは異なっていた。代わりに、行動はイデオロギー的であるように見えた。多くの場合、地元の共産党当局者によって組織され、人々は彼らの革命的な熱意を証明するために一緒に参加したようです。」[8]






>『内モンゴル人民革命党粛清事件(1966年に鄧小平が主導)』Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E5%85%9A%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6

内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴルじんみんかくめいとうしゅくせいじけん)は、1966年から1976年にかけて (文化大革命)、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1]。 

内モンゴル自治区革命委員会設立記念パレード

内モンゴル自治区

概要

南モンゴル(内モンゴル)に居住するモンゴル人は、1920年代から30年代にかけて、外モンゴルにおけるモンゴル革命の影響を受けて、南北モンゴルの統一を目指した組織内モンゴル人民革命党(『内人党』)を結成した。その後 組織は崩壊したが、満洲国崩壊後は興安総省において東モンゴル自治政府が成立すると再組織され、内外モンゴルの統一を目指し活動を行った。しかしその後、中国共産党のウランフ(烏蘭夫)の画策により内モンゴル人民共和国と東モンゴル自治政府は内モンゴル自治政府に再編され、1946年4月に承徳で内外モンゴル統一の代わりに東西モンゴル統一を掲げることが決定され、内モンゴル人民革命党は中国共産党に吸収される形で解党された。

ソロモン諸島の与党政権は第2のクメール・ルージュになるか - 中国共産党

2024/04/16 (Tue) 09:53:14

1968年の血なまぐさい夏、香港とマカオの人々は皆、西江から珠江に死体が浮かんでいることをご存知だった」[22]と述べている。
1997年、テキサス工科大 (Texas Tech University) の歴史学教授であるキー・レイ・チョンは (Key Ray Chong)[23]、鄭毅の共食いの本のレビューで、「文化大革命の間、かなりの数の中国共産党の当局者がこの恐怖を知っていた。1940年代の「ナチス・ホロコースト」や1970年代のポルポトの「キリング・フィールド」に匹敵するものなのに、彼らはこの問題について沈黙を守った。」[24]

1995年、カーネギー・メロン大学のドナルド・S・サットン (Donald S. Sutton) 教授は、彼の研究論文に「人食いは実際に武宣で起こったのか」と書いた。彼は、共食いは最近武宣を訪れた学者でジャーナリストのジョン・ギッティングズ (John Gittings) によって独立して確認されたと述べ続けた。ジョン・ギッティングズは、非番の地元の店員が殺害と共食いについて風通しの良い話をしたと報告し、「武宣では、支那の他のどこよりも多くの人々を食べた」と述べた。[25]

メディア

2016年、『ガーディアン』は文化大革命のレビューで、「おそらく最も影響を受けた地域は、大量殺戮や共食いの報告があった広西チワン族自治区南部だった」と述べている[26]。

2013年、中国共産党の公式メディアである『人民網』やその他の支那メディアは、『中国青年報』の記事を転載した。記事は、文化大革命の間、「広西チワン族自治区のようないくつかの場所では、人々が殴打されて死んだ後、彼らの心臓と肝臓が食べられました、そして驚くべきことに、そのような共食いはその地域で流行しました」と認めた。記事はさらに、「20世紀の人類の歴史を通して、私たちのような文化大革命を経験した国は他にありましたか?唯一の比較可能な時期はナチス・ドイツでした。しかし、この日付まで、私たちはまだこの歴史の期間についてまともなレビューや反省を持っていません。」[1][27][28]

2001年、『タイム』は、「毛沢東の文化大革命は、イデオロギーの熱狂、集団ヒステリー、そして完全な残虐行為の噴火であり、推定1,000万人の支那人が亡くなりました... 現在、1966年から1976年までの数年間のさらに恐ろしい詳細を含む物語が明らかになりつつあります: 革命的な純粋さの名の下に人類の最も強力なタブーに違反した何百人もの男性と女性が関与する共食いの申し立てです。」[12]

ソロモン諸島の与党政権は第2のクメール・ルージュになるか - 中国共産党

2024/04/16 (Tue) 09:50:27

香港大学の人文科学教授でスタンフォード大学フーバー研究所のシニア・フェローであるフランク・ディコッター(Frank Dikötter)によると[15]:

1967年から1968年にかけて、田舎には肉体的に殺し合い始めただけでなく、いくつかの小さな町で儀式的にお互いを食べ始めた派閥がありました。言い換えれば、あなたの「階級敵」を排除するだけでは十分ではありません。あなたは彼の心を食べなければなりません。儀式の共食いの非常によく文書化されたケースがあります。[16]「階級敵」を食べるときは階層がありました。中国共産党の指導者たちは豚肉を混ぜて人の心臓と肝臓を食べ、普通の村人は犠牲者の腕と太ももをつつくだけでした。[17]

カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で働いていた支那の歴史家、宋永毅によると[3][4][10][18]:

広西チワン自治区の独立した研究者は、食べられた合計421人を数えました。しかし、広西チワン族自治区の27の郡で共食いの報告があり、それは広西チワン族自治区の全郡の3分の2です。いわゆる「黒五類」と言われる男が一人、立ったまま殴打されて死亡した。彼には11歳と14歳の2人の子供がいた。地方当局と武装民兵はそのような人々を根絶することが重要であると言ったので、彼らはこれらの2人の子供を殺しただけでなく彼らも食べた。これは広西チワン族自治区の浦北県で行われ、合計35人が殺されて食べられました。

犠牲者のほとんどは金持ちの地主とその家族でした。家族全員が一掃された劉正堅と呼ばれる一人の地主がいました。彼には17歳の娘、劉秀蘭がいて、9人に輪姦された(19回)。レイパーはそれから彼女の腹を引き裂いて開き、そして彼女の肝臓と胸を食べました。このような事件は非常に多かった。

ソロモン諸島の与党政権は第2のクメール・ルージュになるか - 中国共産党

2024/04/16 (Tue) 09:37:22

>『広西虐殺』(1968年)Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%A5%BF%E8%99%90%E6%AE%BA

広西虐殺(こうせいぎゃくさつ)とは、文化大革命中に広西チワン族自治区で発生した虐殺と人肉食である[1][2][3][4]。殺害の方法には、斬首、殴打、生き埋め、石打ち、溺死などが含まれる[2][5]。

支那本土での公式の死者数は10万人から15万人[2][3][4][6]。 虐殺と共に大規模な人肉食が武宣県と武鳴区を含む多くの郡で起こった[2][6][7][8][9]。なお、当時の広西において飢饉の発生は無かった[5][8]。部分的に開示された資料によると、少なくとも137人が食べられ、少なくとも数千人が人肉食に参加した[2][6][7][8][9]。一部の研究者によると、広西チワン族自治区の約30の郡で人肉食が報告され、これまで犠牲者のうち421人の名前が判明している[7][10][11]。

『毛主席語録』(武宣県)

文化大革命後、虐殺や人肉食に関与した人々は軽微な罰を受けただけであり、武宣県では、15人が起訴されたものの、最高で14年の懲役を受けたにとどまった[2][5][8][9][12]。また、91人の党員が除名処分となった[2][5][8][12]。

1968年には武宣県が人肉食についての内部報告を「党中央」に提出したが、党中央からは それを止めるための行動は取られなかった[7]。

歴史的背景

虐殺方法

虐殺の方法には、生き埋め、石打ち、溺死、釜茹で、腹裂きの刑、心臓や肝臓を抉り出す、肉削ぎ、ダイナマイトでの爆破などが行われていた[2][5]。

背中にダイナマイトを縛りつけられた人が、爆殺され粉みじんになったという記録が残っている[2]。
武宣中学校で地理の先生であった吳樹芳という教師が生徒に殴打されて死亡した際は、その遺体は黔江の平らな石の上に運ばれ、生徒達に銃を突き付けられた別の教師によって心臓と肝臓を抜き出された。抜き出された臓器は生徒達が焼いて食べた。[5][7][13]

死亡者数

一次調査

1981年4月、中央規律検査委員会と5つの組織(中国共産党中央弁公庁、中国共産党中央組織部、中華人民共和国公安部、最高人民法院、最高人民検察院)の取り決めの下、20人を超える調査グループが結成された。[2]

1981年6月、調査グループは死者数は10万人を超えるとの調査結果を発表したが、一部の当局者や民間人には、死者数は15万人、20万人、50万人であると主張している者もいる[2]。

二次調査

1983年3月、中国共産党中央委員会によって40人ほどの調査グループが結成され、調査の結果、89,700人の死者の身元が判明した。

だが、なおも20,000人以上が行方不明であり、30,000人以上の死者は身元を特定できなかった[2][4]。

学術研究

2006年、カリフォルニア大学アーバイン校の蘇陽教授は、広西チワン族自治区の虐殺が中国共産党の文化大革命の最中の最も深刻な虐殺であったと主張した。彼は、広西チワン族自治区にある65の郡のうち、43の郡が虐殺を報告していると述べた。これらの郡のうち15は、1,000人以上の死者を記録しているが、平均死者数は526人である[14]。

共食い

『毛主席語録』(武宣県)

大規模な共食い(カニバリズム)は、文化大革命の間に広西で発生した[3][6][7][10][13]。1980年代後半に このトピックについて詳細な調査を行い、後に公式文書のコピーを米国に密輸した学者鄭義によると、少なくとも137人、おそらく数百人が共食いの犠牲となった[4][8][9][11][13]。そして何千人もの人々が共食いに参加した。一次、二次両方の調査に参加した公安省の職員である晏樂斌によると[2]

1968年、武宣県では38人が食べられ、郡の113人の役人が人間の肉、心臓、肝臓を食べることに参加しました。たまたま武宣を通りかかった貴港県の農民 (陳國榮)、は太っていたため地元民兵に捕まり殺害された。彼の肉が20人に分配されている間、彼の心臓と肝臓は取り出されました。

女性の民兵指導者は合計6人の肝臓を食べ、5人の男性の性器を切り、後で飲むアルコールに浸し、これらの臓器が彼女の健康に有益であると主張しました。人間の肉、心臓、肝臓を食べる行動は、武宣、武鳴、上思、貴港、欽州、桂平、凌雲を含む広西チワン族自治区の多くの郡で発生しました。


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